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2004年04月14日(水) [長年日記]
■ 忘れてはいけないこと。
昨日、ネットラジオで野球が聴ける放送局を探しているときのこと。AM KOBE(ラジオ関西)のコンテンツに、こんな項目があるのを見つけました。
それは、震災報道の記録。題して『被災放送局が伝えたもの』。
実は過去にも読んだことがあったので、正確には再発見したのですが。また、読みふけってしまいました。
震災によってAM KOBEの社屋も「全壊」しました。奇跡的に無事だったスタジオで、倒壊の危険を感じながら、余震のたびに死を覚悟しつつ、被災者として、被災者のための放送を、懸命に、行いました。
中でも「3.震災直後の放送と取材活動の抄録」は、震災直後の午前6時から69時間にわたってCMや休憩なしで放送した内容を、同録テープを起こしてまとめたものです。震災直後の様子、その後徐々にわかってくる被害の甚大さ、二次災害の恐ろしさ、なすすべもない被災者の皆さんのつらさ、人間の温かさなど、リアリティを持って伝わってきます。
涙があふれました。布団に潜っても、しばらく寝付けませんでした。もし今ここで同じことが起きたら、と思うと、怖くて。
1995年1月17日。当時、私は高校受験を控えた中学3年生。あの日は学年末テストだったと記憶している。
朝起きたら両親が「地震があったけど気づいた?」と聞く。全く気づかず寝ていた自分。テレビをつけると、どうやら神戸で大きな地震があって、ヘリの映像では煙が上がっている。
朝はそれだけだったが、昼に学校から帰ってきてテレビをつけると、にわかに信じがたい情報や映像が、夜になっても次の日になっても流れていて。
中学生の自分にボランティアなんて概念はまだ無かった。けど、数ヶ月たって、高校生になり、交通機関が復旧してきた頃、自分の目で神戸の様子を焼き付けるべきだ、との思いに駆られた。倒壊した家屋の前でピースサインして記念写真を撮るふざけた奴らがひんしゅくを買うようになったので、すぐには行けなかったが、神戸の方々が「いらっしゃい」と言えるようになってきた夏休みの頃、行ってきた。
中央部がつぶれた神戸市役所、ビニルシートが被されたままの異人館(うろこの家)、地面が波を打っているポートアイランド北埠頭などを、目と写真に焼き付けた。半年以上たっているのに、いまだ生々しい傷跡を残していることに、衝撃を受けながら。
震災から、およそ9年と3ヶ月。神戸の街は(少なくとも見た目は)復興しているように見える。いつの間にかオリックスのキャッチフレーズから「がんばろうKOBE」が消え、少なくとも部外者は、震災のことなど忘れている。
けれど、あの日を境に生活が一変してしまった人だって、たくさんいるだろう。少なくとも、あの日のことで命を絶たれた方が6,433名いる。「震災以来、関西経済はおかしくなった」とコメントする経済人もいる。
どうあがいたって、どんなに復興したって、震災は「なかったこと」にはならない。戦争だって同じ。
今日は記念日でも何でもないのですが、だからこそ忘れてしまっていたことを、時々思い出して、胸を締めつけるべきではないか、と思うのです。
修行中の法話で、和尚さんが語ってくれました。「我々は生かされているんだ」って。
■ 19日の追記
震災犠牲者数の6,433人という数字が、変わるかもしれない。なんでも重複集計が見つかって、県が再集計を行うとか。
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